
皆さん、おはようございます。
新緑が綺麗ですね。
この写真は江の島神社の入り口の所のです
日本は特に元々、自然崇拝の民族なので木々に神が宿り、自然界のすべてのものは神の化身として奉り、崇め、大切にしてきました。
今もそうした名残りから御神木と言われてきた木々の前には、聖域をおかさないようにとしめ縄がはられています。
これから、宇宙全体のエネルギーの変化に伴い、私達自身の意識の変容の時がきているともいえます。
*変容は変化ではなく元に戻ること。
自然界にはこれまで以上に引き続き感謝の心を心底にしっかり持ちながら(おすがりではなく)、一人ひとりが自分の内なる神を見出し、崇め、感謝していく時がきているようです。
こう書くと怪しいと思われるかもしれませんが、全然怪しいことでも何でもなく。
私達は、いのちを持たされてこの地上に産まれてきているという事実。
自分で産まれようと思って産まれてきたわけではなく全体の役に立つため・・・
このいのちは自分のものであって自分のものではなく全体のものであるともいえます。
例えば、会社でも一人ひとりが自分に与えられた役目をきちんと果たすからこそ、成り立っていますよね。これが大きな所からみると宇宙全体も会社も同じなのです。
内なる神(自分)を一人ひとりが大切にすることで、宇宙全体のエネルギーの進化に貢献でき、結果、現実的な所でもより良い方向に全体が進んでいく大きな力になるということ。
内なる神と書くから、ややこしいとか怪しいになりますが、要するに自分を大切にするということの本当の意味を知って生きていくこと。
今までの自分を大切にするという観念の中に、「自分の思い通りにする」「自分の都合のいいようにする」「好き勝手する」=「ありのまま」「あるがまま」と勘違いしてしまっていることが多く、何もかもをコントロールの上(無意識も含め)で手に入れようとするアメリカ的な思想の影響を受けてきました。
(アメリカ批判ではなく、戦後そういうことが良しとされてきた文化の影響、個人主義の履き違え、今はアメリカはじめ諸外国の方が心の進化は進んでいる部分もかなり多いです)
「ありのまま」とか「あるがまま」とかよく耳にしますが、皆さんはどう捉えていますか?
言葉だけで聞くと「今のままで良い」ということにもなりますね。
本来は今のままで良いということには、変わりはありません。
ただ、存在しているだけで価値があるから・・・(誰かの役に必ずたっています)
あえて突っ込んで書かせて頂きますと「あるがまま」とか「ありのまま」とかは「今のままで良いということではなく」持たされたいのちが本当に喜び、活かされていく生き方をしてこそという所も大いにあります(意識の矢印をその方向に向けて生きているかどうか)
持たされたいのちそのものが本当に喜ぶ状態にしてあげることが本来の自分を磨くことになり、大切にしていくことになります。
本気でいのちの根源(内なる神)とつながりを取り戻していこう、深めていこうとコミットして進んでいくと、その過程では、今まで蓄積してきた肉体の澱みと心の澱み、今までの歪が出てくることもあります。
*皆ではないですが、大概の方は・・・
これはとても有り難いことで、この出てきたものに対して「ありのままに観る」ことがどんどんできるようになることで、そこではじめて「あるがまま」の自分を良しとみることができるようになってきます。
*だいたいこの過程が抜けてしまうので表面的な所で納得したつもりになるケースが多い。
なのでいつまでも表面的な世界だけに時間とお金とエネルギーを使い、何だか疲れている。
私がその経験者。今でも表面的なことに興味がないわけではないがバランスが取れてきた。
私達は元々、霊長類。
霊的進化をとげる生き物。
これが肉体を持たされてこの地上に降りてきたある意味、義務でもあり責任でもあります。
これを勘違いして、霊的成長=サイキック能力を高めること。
なので、何かが見える人が偉い、凄いという風潮が未だにありますが、いのちを持たされてなぜ?存在しているのかという意味からすれば本質ではない。
本当の霊的成長とは、魂的成長のこと。
人のことはどうでもよく自分の魂を成長させてあげること(邪魔をしない)が大事。
この肉体を使って魂が進化、成長をしていくためには、持ち主である私達の肉体と心の澱み滞りが蓄積したり、沈殿させていると(蓋をしていると)進化、成長したいという内なる神(魂)の邪魔をしてしまうことになるのです。
*本来の魂の素晴らしい力が発揮できなくなってしまう。
それでは勿体無い。
いまかいまかと内に目を向けてくれること、内なる内在智に早く気がついて・・・
「自分を癒す力、整える力、導いていく力」もすべてすべて内にあるよと・・・
特別な人は本来は存在しない、あなたこそ特別だということを本当にわかって・・・と日々、訴えてくれています。
日常のどんな場面でも・・・
その訴えをちゃんと聞いてあげることができることができるようになることが、いのちの根源と深くつながり、内なる神と一体となること。
それではじめて「ありのまま」の自分をちゃんと認めつつ「あるがまま」で生きることができるスタート地点にたてるのではないかと思っています。
それは、少なからずや私自身、内なる神の存在に本当に感謝できるようになってきたからだと思います。
これからもこの肉体が終わりを迎える瞬間まで霊的成長をし続けていこうと思っています。
それにはかけ離れたことはできないので(日常こそが学び)私の場合はわかりやすい体を通じて、心の進化、成長を促す日常を大切に過ごしていくことのみです。
いつもテーマを決めてから書いていないので今日はこんな話になりましたが、何か皆さんの内なる神がもしかしたら反応するかもしれませんね・・・・
今日も最後までお付き合い頂きましてありがとうございました。
今日も皆様にとって心地よい一日となりますように・・・